突然ですが、皆さんは「老いること」が怖いですか?
私は正直、ちょっと怖いです。
現在、私はアラフィフですが、昨年父を亡くしたこともあり「老い」や「死」について頻繁に考えるようになりました。
自分が60になったとき、
そして70になったとき、
果たして元気で変わりなく過ごせているのか。
毎日、何をして過ごしているのだろうか。
その頃「死」については、どんなふうに考えているのか。
こんなことを漠然と考えては、不安になっています。
さて、先日ふと本屋で目についた小説、『今度生まれたら』(内館牧子著)を購入しました。
主人公は70歳の主婦、夏江。
ときどき漏れ聞こえる夏江の心の声が大変面白く、笑いながら一気読みしてしまいました。
この作品を読むことで、「70才になったときにはこういう心構えでいればいいのか」ということが、なんとなくわかった気がしています。
今日は、この『今度生まれたら』をご紹介しつつ、我々が「老いる」ということに対して恐怖心を抱く原因について考えてみたいと思います。
★夏江が現在かかえている苛立ちの原因についてはネタバレがありますが、その他の家族の問題や最終的な夏江の決断などについては触れておりません。
『今度生まれたら』
自分の年齢が現実のものとは思えない
皆さん、ご自分で感じている年齢と実年齢って一致していますか?
私はまったく一致していません。
気分はマイナス10歳のアラフォーといったところでしょうか。
書類に年齢を記入するときなど、その数字の大きさに違和感を覚えるほどです。
主人公の夏江もそんなひとり。
夏江はある日、新聞記事を見て愕然とします。
というのも、夏江は数日前に、近所に保育園の建設計画があることについて記者からインタビューを受けていました。
そのときの夏江のコメントが新聞に掲載されたのです。
以下、引用です。
私がその記事で何よりショックだったのは、「佐川夏江さん(70)は」という一行だった。
そうか、私は(70)か。(70)、(70)、(70)……。
この箇所を読んで、物語に一気に引き込まれました。
なんだか分かる気がしませんか?
数字こそ(70)ではあるものの、中身はきっと若い頃とそう変わっていないのだと想像できます。
数字だけが大きくなっていく恐怖。。。
「女はクリスマスケーキ」
夏江が若かりし頃は、学歴の高い女性は男性ウケがよくありませんでした。
地元の進学校に通い、国公立の理系に進めるだけの頭脳があった夏江ですが、「エリートを早々に捕まえて結婚する」という目標のために、勉学の道を切り捨てます。
そして、男性ウケ抜群のミッション系女子大に入り、新卒で入った会社で、あるエリート社員に目をつけます。
そこから、持っていた女子力を総動員させて、その【エリート】を落としにかかるのです。
このくだりを読んでいて、あー、たしかにそういう時代だったなぁと思い出しました。
私は夏江よりおよそ20若いですが、私の若い頃も、女は依然としてクリスマスケーキに例えられていました。
つまり、25を過ぎたら女の価値はだだ下がりするという意味です。
私が新卒で入った会社でも、27くらいまでに寿退社をしないと陰口を叩かれ、30を過ぎた女子社員は、総務部のいちばん地味な課に移動させられたりしていました。
私の高校は進学校でしたが、就職で有利になることを考え、短大に進む子が多かったです。
一歳でも若く社会に出て、男性に見初められた方が得策だからです。
今から思えば、すごい時代でしたね。。。
今度生まれたら
また小説に戻りますね。
私はと言えば、和幸(夏江の夫)の意向を第一に考えて生きてきた。そして今は、口を開けば「最後に頼りになるのはカネ」と言うジイサンとつきあう毎日だ。こんな人生、いくら平凡な幸せでも、次は別の道を行きたい。自分を生かしたい。
夏江はぶりっ子しまくったおかげで、エリート社員の和幸と結婚までこぎ着けます。
その後も2人の息子に恵まれ、嫁姑問題もなく、幸せな暮らしをしてきました。
ところが、ある事件がきっかけで、夫の出世の道が閉ざされてしまいます。
その後、やたらと否定的な物言いをしたり、お金にうるさくなってしまった夫を見ては、夏江は「今度生まれたら、この人とは結婚しない」と思うのでした。
ところで、夏江には子供のころから【ある才能】が備わっていました。
いわゆる天賦の才です。
その芽を伸ばすこともできたのに、夏江は将来の安定や世間の目のために、自分の才能を葬り去ったのでした。
エリート街道から外れ、すっかりケチンボになってしまった老いた夫を見て、結婚になどに夢を見ずに、自分の才能を活かすことに注力すればよかったと後悔するわけですね。
「前向きバアサン」
さて、冒頭でお話したように、新聞記事を見て自分が(70)であることに愕然とした夏江は、残りの人生をどのように生きたらいいのかと模索します。
以下は、夏江が会社員時代の同僚と、70以降をどう生きるかについて話す場面です。
同年代の女性たちは言います:
「体が動くうちは、どんどん外に出ることよね。家ン中に引っ込んでるから老けるの」
「それもただ外に出るんじゃなくて、趣味でもボランティアでも、自分の力を役立てるの」
「実は私さァ、フラダンス始めたの。七十の手習いだけど、面白いのよォ」
(中略)
誰もが口々に、「やる気があれば何だってできるの」「何か始めるってエネルギーいるじゃない。それを持つことが若さを作るんだよね」
(中略)
私は「そうよ、そうよ」と同調しておいたが、私が好かないのは、こういう「前向きバアサン」だ。
夏江は老いてから趣味やボランティアに励む同年代の女性たちを「前向きバアサン」と呼び、忌み嫌っています。
なぜか。
夏江は「世の中のために役立たない趣味をやっても、虚しいだけ」と思っているからです。
(70)になってから新しい何かを始めても、それを生きているうちに習得することは難しい。
習得できないということは、所詮は仲間内の褒め合いの域を出ない。
そんなことをしても、虚しいだけ。
物事を始めるには、年齢制限があるのだ。
夏江はこのように考えているわけですね。
皆さんは、どう思われますか?
老いるのは怖い?
未知のことに着手する年齢制限
私には夏江の気持ちがよくわかります。
さすがに「前向きバアサン」とまで言うつもりはありませんが、(70)からまったく新しいことを始めても。。。
とは正直思います。
それが向いているかどうかもわからないのに、貴重な残りの時間を使ってやるべきことなのか。
ただ「楽しそうだから」という理由で未知のことに手を付ける時期は、やはり過ぎているのではないかと思うのです。
未知のことに手を付けて習得に至るのは、ものにもよりますが、だいたい還暦くらいまでかなぁ。。。
個人的にはそんな風に感じています(あくまでも個人の見解です)。
向いているもの、本当に好きなことなら。。
なんとなく思うのですが、自分に向いているもの、才が備わっているもの、そして心から好きになれるものというのは、(70)になる前に既に出逢っているのではないでしょうか。
出逢ってはいるのだけれど、何らかの事情により「見えない見えない~」と蓋をしたのかもしれません(夏江の例ですね)。
私自身、外国語が好きで好きで仕方がなかったのに、途中でその気持に蓋をして、興味なんてありゃしない資格の取得に邁進してしまったという苦い過去があります。
人には多かれ少なかれ、このような経験があるのではないかという気がしていますが、いかがでしょうか。
老いるのが怖いということ
『今度生まれたら』を読んでいて思いました。
人が老いに対して恐怖心を抱くのは、
「親から、あるいは天から授けられた【才】を発揮できずに生涯を閉じることが怖い」からなのかもしれません。
自分に備わっている天賦の才、そんな大層なものはないわというのであれな、向き不向きのうちの【向き】にあたるもの。
これに本当は気付いているのに蓋をしてしまっていて、開花させずにおわるのが惜しくて、悔しくて、老いを恐れるのかもしれません。
だって、思いっきり才能を発揮していたならば、死ぬ時に「よく生きた!やりきった!」と思えるはずでしょうから。。。
おわりに
内館牧子氏の『今度生まれたら』を読んで、老いに恐怖を感じるその原因について考えてみました。
(70)になってから焦らずに済むように、今のうちから自分の心と向き合い、前からやりたかったことに取り組んでみたり、自分に備わった【才】を開花させることに注力すべきだと思います。
なにも「前向きバアサン」が悪いわけではありません。
(70)を過ぎてから、することがないとうなだれて生きるよりも、100億倍立派です。
ただ、やみくもに前向きな(70)にならずに済むものなら、避けたいなとは思っています。
そのためには、「今」を一生懸命に生きることだなと感じます。
自分の本心から逃げずに。
今回読んだ内館牧子氏の『今度生まれたら』。
昭和の時代の空気を読みすぎて自分の【才】に蓋をしてしまった女性の物語です。
しかし、夏江は賢く、したたかで強い。
読み終えると、爽快な気分になります。
自分もいっちょやったるか!と思えてきます。
読んで損はありませんよ。
最後までお読みいただきまして、ありがとうございました。
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